宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日)- 1908年(明治41年)2月2日)は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。

経歴

豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡中津町(現中津市)で生まれる。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した。

帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任。1891年(明治24年)反改進派として大分県会議員に選出され、同参事会員も務め、1899年(明治32年)豊国同志倶楽部の結成に際して元田肇の指名で筆頭幹事に就任。その後、元田と別れて帝国党に加わった。

1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(大分県郡部、帝国党)で初当選し、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。1901年(明治34年)から対露強硬論を主張したが、日露戦争開戦直後の第9回総選挙で落選した。

その後、実業界に転じ、中津米穀取引所理事長、中津紡績取締役、大分鉄道期成会幹事、中津貯金銀行取締役、中津共立銀行監査役などを務めた。

国政選挙歴

  • 第1回衆議院議員総選挙(大分県第6区、1890年7月、自由党)次点落選
  • 第2回衆議院議員総選挙(大分県第6区、1892年2月、自由党)落選
  • 第3回衆議院議員総選挙(大分県第6区、1894年3月、自由党)次点落選
  • 第4回衆議院議員総選挙(大分県第6区、1894年9月、自由党)次点落選
  • 第7回衆議院議員総選挙(大分県郡部、1902年8月、帝国党)当選
  • 第8回衆議院議員総選挙(大分県郡部、1903年3月、帝国党)当選
  • 第9回衆議院議員総選挙(大分県郡部、1904年3月、帝国党)次点落選

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 山本艸堂編『下毛郡史』私立三余女学校、1912年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。

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